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はすだ歴史探訪

丸城、天満社、白岡八幡宮、御殿場公園、堂山公園、蓮田駅(後半コース)

  • コース:白岡駅~論証踏切~稲荷社~御殿場公園~堂山公園~蓮田車站碑~蓮田駅
  • 距離:5.6km
  • 所要時間:2時間
  • 地図:

丸城、天満社、白岡八幡宮、御殿場公園、堂山公園、蓮田駅

もっと歩きたいという方は、白岡駅から東武ストア方向に進み、その先のY字路を左に行きます。病院を右手に見ながら、宇都宮線に沿って蓮田方向にすすみます。 約800mで論証踏切です。踏切を渡らずに右折し約100mほどで南新宿の鎮守の稲荷社が見えてきます。

稲荷社

この社は戦国時代にこの地に住した岩槻城の元家老山本某を中心とする武士団の守り神として祭られた社で武士団はその後帰農して黒浜村の笹山の地に畑や 広い田を求めて移住したと言われています。社はそのままこの地に残し、南新宿の人々の手に受け継がれて今も信仰を集めています。引き継がれた時期について、 江戸期に書かれた本「新編武蔵風土記稿」には記載がなく、明治初期の「武蔵国郡村誌」に記されていますので江戸時代後期つまり幕末のころと考えられます。 祭日は同村の久伊豆社と同じく2月の初午の日と9月9日です。

稲荷社前の道を右方向に約100m進み、酒店前を左手に約600mすすむと、宇都宮線の踏み切りにでます。 踏切の反対側にセキスイの工場がありますが、 この地には次のような話が残っています。(古老の話し)

幻の鉄道工場

明治18年に東北本線が上野から宇都宮まで開通して,間もなく日本鉄道株(私企業)は鉄道車両の修理工場を造ることになり、上野駅からあまり遠くなく、しかも高台の場所で大変立地条件のよい黒浜の地に目をつけました。黒浜の地に当時広大な国有林があったのです。日本鉄道株からこの計画が持ち込まれたとき黒浜の人々は村民あげて反対し浦和の県庁までおしかけたそうです。村民の反対で工場建設は沙汰やみとなったということです。 修理工場はその後大宮に決まり明治27年工場が造られて大宮は鉄道の町として大きく飛躍することとなったのです。 黒浜に鉄道工場が造られていたら大蓮田市になっていたのではないでしょうか。同じ場所に90年後、蓮田市の工業地域として今工場が操業始めたのです。

踏切を渡らずに右方向に小道をすすむと椿山の住宅地に入ります。400mほど先に陸橋が見えてきます。150m先の右手に御殿場公園があります。

御殿場公園(ごてんばこうえん)

公園の名は伝承の地名から採った名です。御殿場は江戸に徳川幕府が開かれた1600年頃から1640年頃にかけて、将軍家康、秀忠、家光が関東を治める基礎をかためるために各地の民情の視察と地理的状況をつぶさに調査するために鷹狩をもよおしていたが、蓮田市周辺では元荒川や綾瀬川流域に度々おとづれました。記録によりますと行田市から越谷市や草加市あたりにかけて15日から20日もかけて鷹狩を行っています。その時将軍が陣幕を張り仮の館をつくり地域の名主や村役人を引見したところと言われています。 当時の元荒川は荒川といい秩父山地から水を集め満々と水をたたえて流れており未開発の沼沢地(しょうたくち)であって、水鳥なども豊富な場所であったと考えられます。  幕府はその後江戸を水害から守ることと荒川沿線流域の開発のために元荒川と綾瀬川を分離して沿線流域の開発に着手し、ついで寛永6年81629年)に荒川の瀬替をおこない熊谷市内で入間川に流れるようにしました。 綾瀬川や元荒川の開発と同じくしてお鷹場は縮小され以降、将軍の鷹狩はなかったようですが地域の人々は御殿場の地を守り続けてきました。今は住宅造成で形も変わりましたが以前は荒川より8m程高い台地で平らに整地されて松林となっていました。

御殿場公園の前を通りぬけ北への道をたどると御林(おはやし)の踏切に出ます。(御林については黒浜パート2参照)この先は道が細くなるので左折して広い道路を行きます。踏切の反対側にセキスイの工場がありますが、この地には次のような話が残っています。(古老の話し) 御殿場公園をあとに線路に沿って約800mすすむと元荒川につきあたります。そこを左折し 宇都宮線下をくぐり荒川橋を渡ります。100mほどで宇都宮線の踏切があり、堂山公園正門です。踏切を渡ったらすぐに堂山公園です。

堂山公園 堂山公園は飯野翁の生家のあった屋敷地で遺族によって蓮田市民のために寄贈されたものです。公園の広場には翁の銅像がたちその功績を称えるとともに、 市民の幸せを願って見まもってくれています

飯野喜四郎

明治元年蓮田村に生まれ、昭和15年に亡くなる。この間明治27年から昭和15年まで県会議員にほとんど毎回当選議員生活30余年この間に2回議をつとめる。 明治30年現春日部高等学校設立に尽力,大正7年現埼玉大学の誘致運動を起こし同11年間に開校、武州銀行(埼玉協和義銀行の前身)の設立,県甘諸商同業組合長、 大宮合同運送株式会社設立社長等、県下の教育、産業、交通等に貢献的に活躍した。  この間,政友会埼玉県支部幹事長となり、県下政界の最高実力者として県政の各方面におもきをなした。 蓮田にとっての飯野氏は東北線が当初浦和から岩槻を通る計画であったが、岩槻町住民あげて反対したため、大宮から蓮田を通すことにした、 蓮田村の人も岩槻同様村民あげて反対したがこれの説得にあたり、自分の土地を提供し開通にこぎつけ、蓮田に駅を造ることに成功、蓮田市発展の基礎を作った人である。 (飯野喜四郎伝より)

蓮田車站(しゃたん)記念碑

碑文には当時の蓮田村のようすや駅を利用した人々、鉄道を通すことの困難さ、蓮田の発展を考えそのようななかで鉄道敷地を寄付した 飯野、田口、吉田氏の功績などが開設17年後に時の駅長の手で記されたものです。

蓮田駅駅頭にたち、昭和初期の様子を思い出してみますと今はあさひ銀行のビルがありますが、ここには田口医院があり右には人力車の店 、馬車屋の店があり料理屋、菓子屋、薬屋、雑貨をあきなう店が何軒かあり、運送屋、医者やあさひ銀行の前身の武州銀行があり、 甘藷問屋、新聞店、お茶屋、足袋屋、金物を商う店などがあったそうです。駅が開設して40年たった頃でもまだひなびた村のたたずまいのようでした。 当時の産物は米や麦のほかに甘藷が作られていたようです。まだ特産の梨などは作られていませんでした。鉄道を利用して勤めにゆく人はありませんでした。 浦和方面に行く学生が何人か利用していました。

今あるいてきたことがうそのように感じられさわやかな疲れを感じます

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